おまけ読み物:価値ある日本人の自然観と可能性 ※長文
現在グローバルで抱える環境問題は、西欧中心として発展してきた人間中心的自然観がもととなっている側面があると仮説をもっています。
というのも、西欧の中心となってきたキリスト教の基本的な考え方とは、「人間は神から自然の支配者という地位を与えられた」という発想があるからです。
自然を人間と切り離し観察を積み上げる考え方は、科学・テクノロジーならびに人間の経済において大きく貢献しています。いまでは原子レベルで観察し利用して、経済の源となる電力を絶えず供給するするまでにいたっています。人々の生活は間違いなく豊かになりました。しかし、恩恵と同時に問題も生み出しました。人間のために消費されている自然の動植物が多すぎて、持続可能性に疑問がもたれるようになっているのです。
このような問題に対して、従来の自然観だけで物事をとらえてはたして本当によろしいのでしょうか。
そんな疑問を持ちながらも、筆者の趣味として、日本で残っている和歌や文学や文化を紐解いていくと、日本人が古来から持ってきていた自然観は特徴として際立っており、世界へ広める価値があるものと気づきました。
ほんの少し例をあげても、自然の動植物と付き合うに魅力的に見えませんか?
(一)自然と共生してきた里山文化
(ニ)モノを大事にする「もったいない」
(三)和歌や文学からみられる「自然と人が連続している自然観」(⇔キリスト教は断続的)
有名な宮崎駿監督も、そのような日本人の自然観や精神性を表現して、多くの人から共感を得ました。ほんの一例をあげてもそれがよくわかります。
「風の谷のナウシカ」においては、エルトリア人の「自然の生き物を人間の戦争や利得のために利用する」姿勢に対して、ナウシカは「自然を理解してともに生きる」ということを表現されています
「もののけ姫」においては、サンに象徴される動植物や自然界にいる神様へ対して、アシタカは「ともに生きよう」と提案をしています
筆者は現代っ子ではあるものの、自分の中の一部だけは、ナウシカであり、アシタカでありたいと考えます。
日本では古来から大事にされてきた「松」にある、まつぼっくりをつかって色々な工夫を施してみることに挑戦します。
このような「自然の身の回りにあるものを工夫して楽しみ豊かになっていこう」という発想が広まり、世界中で時代のもつ問題へ向き合う知恵となることを願っています